tetsugaku-nikki

何も知らないことを知っている私が、初めて哲学の扉を開けて、知ったこと、思ったことを綴る不定期な日記。

JK哲学日記#2 [信じることに理由はいらない、とにかく跳べ]

 

跳んでみること


〜過去のメモより〜

27. Feb. 2024

 

今日は面白いことがひらめいた💡ので、書き留めておこうと思う。

 

理由を求めること

人は哲学の歴史を見てもわかるように、宗教の信仰や日常生活での小さな決断にまで理由を求めるけど、そもそも理由はないんじゃないか。

 

授業での脳内回路

それは今日の哲学(宗教学)の授業でのことだった。

トマス・アクィナスと聖アンセルムスの「神を信じる理由」について学んでいた。2人ともアプローチは違っても、面白い持論で「なるほど〜そんな考え方もあるのかー」と考えていた。個人的なこだわりではあるが、私は科学以外の分野では科学的な理由や証明を求めない。だから、特に哲学では驚く心構えをいつも持つようにしている。

ロボットちゃん

ここで私のクラスメイトを紹介しようと思う。クラスは私を含めて5人で、そのうち2人がいわゆる経験主義者で、全てのことは科学で説明がつくと考えているんだ。私はそんな2人が不思議でしょうがなくて、よく議論になると、次は何を言い出すんだろうと内心楽しんでいる。

そんな2人の友達をロボットちゃん(たち)と呼んでいる。(これは、人間の愛や友情、悲しみ等も全て科学的な理由で成り立つと主張したことがあったから。ちなみに、それならあなた達とロボットの違いは何なのかという私の反論の答えは未だ返って来ていない。)あとの2人は大体私と似たような意見を持っているようだが、議論になってもあまり介入してこないので、紹介は割愛させて頂こう。

論理的≠科学主義

さて、私はこのクラスが世界の縮小図のように感じることがある。

ロボットちゃん達がいつも科学的な根拠がない!と批評するように、2人の哲学者にもいつもそのような対抗意見がある。どんな理論においても大体そうである事に、私は時々うんざりする。ましてや、アクィナスの理論の背景を考えた時、祭司を目指す神学理論の学生向けの本(Summa Teologiae)に書かれている事である以上、神を信じるのは大前提であって、今後、その生徒達が疑問を持った時のための1つの解釈の仕方だと捉えているので、そこに科学的な根拠を求めるのはお門違いだと思う。

 

もちろん議論においては論理が必要だと思う。簡単にいうと、A=B, B=CよってA=Cの原則のことだ。これは討論や何かを主張したい時の基本だと思う。もちろん、アクィナスやアンセルムスもこれに沿って主張している。

 

そこで私はぼーっと、こんなことをぐるぐると頭の中で考えていた。

「21世紀では科学が過信されている…でも皆がそれに惹かれる理由もわかる。なぜ人々は行動に理由をつけようとするんだろう。そしてその理由達にも序列があって、皆科学的なものを信じたがる…」

そしてその時、どこかで聞いた言葉が思い浮かんだ

なぜ理由をつけようとするのか(心理学的なアプローチ)

「信じることに理由はいらない」

あいにく、どこでこれを聞いたのか思い出せないけど、聞いた感じ、考えることを諦めた人が言ってそうな印象がある。(安心してください、考えてます。)

なぜいきなりそんな結論に辿り着いたかというと、アクィナスやアンセルムスがなぜ神を信じる事に理由をつけようとしたのか、想像してみたからだ。これは完全に「なぜその人がそのように行動したのか」を考えているので、心理学的なアプローチになってしまうが、このように分野同士の架け橋になることが哲学の醍醐味でもあるのでいいよね!(圧)

私が思ったのは、信じる事に理由はいらないけど、理由が合ったほうが安心するということ。これはどの時代でも、誰にでも当てはまることじゃないかな。アンセルムスやアクイナスの時代背景を考えてみよう。彼らはキリスト教を当たり前のように信じていたし、周りの人々もそれを疑問視することは珍しかっただろう。その中で、暇だったからか、好奇心が強かったからか、それとも安心できる理由が欲しくて、理論を考える事になったんじゃないかな?それがさらに、科学のように論理的であれば、なおさら賞賛されるわけだと、思った。

このことを生かすとすれば:跳べ

さて、皆さんも人生で決断を下すことはたくさんありますよね?

その決断で行動を起こした時、一貫性や勇気、自信があって、始まったことでもやがて、それらが減ってしまう時もありますよね。

そんな時に、安心したくて、自己肯定したくて、理由を(何なら論理的にしちゃったりして)つけるのは決して悪いことではないと思います。

逆を言えば、何か行動したい時に理由を求められたり、理由がないことが諦めるきっかけになってしまうのは間違っているとも思います。(道徳的に正しい範囲内で。理由もなく人を叩いていいとは言ってませんよ?)

 

ここまでいかがですか?

さらにもう1ステップこの考えを発展しようと思います。これは、キルケゴールという哲学者の言っていたことから発想を得たのですが、

 

「理由を後からつけることはできるけど、理由のないことに理由を求めることはできないということ。

もっというと、理由のないことを決断する時には、その決断を信じることしかできないということ。」

 

例えば、ズボラなわたしはよく電車で目薬を指します。その時肝心なのがタイミングです。いつ、大きめの揺れが来るか分からない状態では、何となく理由はないけど思い切って見ることが大切です。目に刺さるかもしれない、溢れるかもしれない、それでも勇敢な私は、今この一滴の目薬をさそう!と思い切るのです。これに理由はありません。

キルケゴールはこのような判断を大きな一つのジャンプと例えます。

とにかく、跳んでみること。神を信じるにしても、目薬をさすにしても、未だ決まらない進路に関しても、覚悟を決めて跳んでみる。

 

そうひらめいた時に終礼のチャイムが鳴った。

 

 

アクィナスと聖アンセルムスが気になる人へ

トマス・アクィナス (1225頃 - 1274)

中世ヨーロッパのイタリアの神学者、哲学者。スコラ学の代表的神学者

すごい所:それまではプラトン哲学で神学を考えるのが普通だったのに、アリストテレスファンすぎて、アリストテレス哲学で神の存在を解釈できちゃったこと。

アリストテレスのニオイぷんぷんな神を信じる理由>

アリストテレス:全ての始まりは第一動因である

アクィナス:それ神やん!

例えば

1.全てのものは何かしらの結果である。

2.つまり何かの原因が必ずあり、その原因もまた何かの結果である。

3.何の結果でもない、全ての原因をたどると必ず行き着く最初の原因(第一動因)が神である。

私の言葉で書きましたが、こんな感じのことです。他にも4つありますが疲れました。

 

聖アンセルムス/カンタベリーの聖アンセルモ(1033‐1109)

イタリア生まれ。カンタベリー大司教。スコラ学の父。

すごい所:何となく神を信じるんじゃなくて、神の存在を論理的に証明したろ!で、できちゃった人(賛否は置いておいて)

<神を信じる理由>

1.神は完璧(全知全能)である

2.全知全能なら「存在」が欠けることはない

3.よって神は存在する

もちろんこれには、1段階で頷いた人しか3に賛成できません。しかし、ここまで簡潔に、あたかも数式のような神の存在証明を試みた人として、今でも議論によく出てくる人物です。